fragment

断片と断片の連想ゲーム

量と質について。

 
f:id:A7A12A11A:20140901222912j:plain 

 

アメリカの脚本家・俳優のサインフィールド氏は若者に成功の秘訣を訊ねられてその質にこだわらず、とにかく毎日それを続けよ。Don't cut the chain!(鎖を切るな)」とアドバイスしていると言う。
http://kyouki.hatenablog.com/entry/2014/08/22/075816

この文章はいちろやさんという、個人的にその文体の素直さが好きなブロガーさんのブログからの引用だ。この文章を読んだ時に、内的な誤謬を発見したので、折角なので記事に書いておこうと思う。 

完璧主義というものがある。歌手のRihannaのような生産的な完璧主義者もいるけれど、殆どの場合、心理的障壁としての完璧主義が日本では見かける。国民性だろうか、こちらアメリカの友人には前者のような人は多いのだけれど。

それはさておき。
完璧主義を掲げる
彼らというのは、過程よりも結果を重視する。

非生産的な完璧主義者の人に限って言えば、結果だけを重視するがゆえに過程を反省することが出来ない。故に改善が出来ずに同じ過ちを繰り返す。そしてその結果、自分の理想通りの結果が出せない行為を実行し続けることができない。自分の自信を喪失するという損失しかないからだ。

時に、量より質、というけれど、質は量があってこそ成立するし、その量はある程度のクオリティが無くてはならないと思う。

筋トレだって、継続して量をこなすだけではなくて、その一回の質を自分にあったものにしなくては効果が無い。これは学習のプロセスにおいても同じで、ある程度コンフォート・ゾーンを超えた行為をしなくては学習というのは発生しない。

何がいいたいかといえば、ブログの話だ。
自分は一応、毎日更新するのが目標だった。けれど、それは特定のリンクを引用してタンブラー的な使い方をするのは本来の意図とは異なっていた。「時間がない」という言い訳を潜在的にしていたように思う。

けれど、本当は納得して書きたいこと以外を書くことに抵抗があったのだと思う。言ってみれば、「やる気が出ないからやりたくない」というような言い訳と同じ構造だ。自分の書きたいことだけしか書きたくない、というのは選択の一つであるが、文章や思考を深めることが目的の自分にとってはこの考え方は邪魔なだけだから。

というわけで、質を気にせずにごりごり書いていきたいと思うよ、と言うオハナシでした。

であであ。

万年筆の手入れ

日記などを書くとき、自分は万年筆を使う。

しかしインクが切れて放置していたら、インクが出なくなってしまっていたので、思い切って手入れをしてみることにした。

 

参考にしたのはこちらのサイト。

万年筆の使い方・書き方・お手入れ方法・洗浄方法
http://www.kobe-nagasawa.co.jp/fountainpen/

 

 

続きを読む

毒親と、「子供らしさ」と「大人らしさ」、そしてそれを押し付ける人々について。

はじめまして。中2男子の母です。息子に携帯を買い与えたら、メールの内容が悲惨な... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212476557

 

怖い気持ちでメールを除いてみると・・・
内容が明らかに異常なのです。
中学生の携帯メールの内容といえば【勉強がんばろう】とか【宿題終わった?明日の持ち物は●●だよ】みたいなのを想像していました。が、現実は悲惨。
これはメールの内容の一部を抜き出した文です。
【●●ってカワイイよな~】【俺◆に告られたw笑】【テストとか確実に死ぬっしょ】【チン毛生えた?】
手が震えるのを必死に抑えていたら、見知らぬ女の子や男の子(同年齢にたいです)の写真が添えられたメールも・・・

 

/前置き

個人的に、毒親の文章というのは3つの特徴があるように思う。

  1. その話題の中に出てくる敵視している対象がどれだけ非常識でありえない存在かセンセーショナルに書いていること
  2. 自分の感情を過剰に演出することで半強制的に読者の共感を求めていること
  3. 自分の立場が常に悲劇のヒロイン・正義の味方として描かれていること

この前提に基づいて、上の引用元はテンプレートのような毒親の文章だと僕は思うのだけど、なかでも個人的に引っかかった表現がある。「中学生らしさ」という表現だ。

続きを読む

Quote: ビッチとうまくやっていくための、たったひとつの冴えたやり方。

 

 

どうせ他人の状況です。あなたが想像する相手の状況は、必ずどこか間違ってる筈です。あなたは相手の状況を正確に想像することは絶対にできません。ですが、それをしないよりも遥かに良い。人と人の関係は、都度都度異なります。だから、より良い関係の作り方も都度都度違う筈です。

 

都度都度違う相手とより良く付き合うためには、より良い関係を作るための抽象的なモデルやパーツを学ぶ必要があります。学ぶと言えば難しい話に聞こえますが、どんな関係の仕方があるのか、それをフィクションで知ることは可能でしょう。それが楽しければなお良い筈です。

過去や未来の、あるいは仮想的な、別の相手との体験との比較によってしか、「ぞの時々の体験」を考えられないとしたら。むしろその「比較」の結果、より良い体験であるようにするしかありません。もしくは、考えるのをやめるしかない。より良くしようと努めるか、考えるのをやめようと努めるか。あるいは、実際に「考えない」でいるか。『あそびあい』の魅力は、こういった「体験」の多様な在り方をまるで論理ゲームのようにシンプルに作品化しているところにあると言えるでしょう。

 ビッチとうまくやっていくための、たったひとつの冴えたやり方。『あそびあい』 - マンガHONZ
http://honz.jp/articles/-/40695

Quote:”オタクの息子に悩んでいます - 岡田斗司夫なう”

”自分の趣味に没頭していいのは、子供か「一人前の大人」だけなんだよ。”

 

メイキング・オブ[悩みのるつぼ]・オタクの息子に悩んでいます - 岡田斗司夫なう。
http://blog.freeex.jp/archives/51227624.html?utm_source=zenback&utm_medium=http%253A//blog.freeex.jp/archives/51227636.html&utm_campaign=zb_related_links

 

答えた僕もまだ迷っているよ。
本当に「独立」は正しい方向なんだろうか?
単なる「大人になれ」論と、どこまで違うんだろうか?

この相談に悪者はいない。出演するのは善人ばかりだ。
そして、善人というのは”弱い”という意味なんだ。
弱い人が身を寄せあって暮らしていると、弱さゆえに攻撃性が身内に向いてしまう。
母親は「最近の若者に対する拒否感」を息子に向け、息子は「世間の不理解への不快感」を母親に向けてしまう。
言ってしまえば「互いが本音で暮らしている」から、この悲劇は生まれた。
本音を出して暮らせるのは、保護期間だけなのにね。「もう暮らせない」と思うからこそ、人は自立できる。

でも、その「自立すべし」という処方箋は正しいんだろうか?
僕自身、15年前のデビュー作「僕たちの洗脳社会」で、こう書いた。
「近代的自我の確立とは、幻想だった」と。
じゃあ、近代的自我=人格の独立性が虚構だったなら、別に自立を目指さなくても、とかグチャグチャ考え出しちゃって、〆切りギリギリになったんだ。

 

Quote:ソーシャルゲームというゲームでないドラッグ

 

ゲームというのはな、いかに楽しく努力をさせるかが大事なんだ。頭や体を使って難しい目標を達成した時、ご褒美として脳みそから汁が出る。運動した後の気持ちよさ、褒められた時の嬉しい気持ち、泣きそうなほどの感動というのは現実ではなかなか出会えない。ゲームは誰もが飛び越せる絶妙な難易度の壁をクリアさせることで、「すごい!」「君は出来る!」「よくやった!」、凄まじい達成感を得る。現実世界ではあまり褒められたことのない子供が自分から進んで体験したく成る、それこそがゲームの肝だ。リアルマネーを使うのはその大切なゲーム体験を飛ばしてしまう。全くの努力なくお金で手に入れる快楽は、ドラッグなんだよ。ガチャにハマって銭突っ込んでる連中は、もう自分をコントロールすることが出来ない。ゲームの中での「努力」を放棄する、ゲームの中の時間を買う、他人の経験値を現金で買う、それは麻薬と同じだよ。

 

 くまニュース : 課金ゲーを嫌う父親を描いた漫画が正論すぎる
http://blog.livedoor.jp/qmanews/archives/52101987.html

続きを読む