fragment

断片と断片の連想ゲーム

ジェミニと父と私の感傷

2018/05/13
暑がりの自分はやはりこの温度でも目が覚めた。世間一般的には驚くほど寒いらしいのだが、正直私としてはこれくらいが心地よい。もちろん目覚めたのはやや空腹なのもあるだろう。そのままぼんやりと出来ることをこなしながら、ツイッターを開いた時のことである。ジェミニのCMについてのツイートが目に入ったのだ。

該当するCMについては知っている。30年前くらいにいすずの出したジェミニと言う車のCMだ。実際に撮影をしたという脅威のドライビングテクニックと華麗なカメラワークを目の前にただただ驚いたのもそうだが、それを少年のようにありのままに賞賛する父の声がまだ脳裏に新しい。話初めのこちらの反応を期待しているような、いたずら少年じみたの父の顔もそうだ。

そうして件のCMを絞った音量で鑑賞してみると、なんとなく物悲しいような気分にさせられた。エモいというやつである。

より具体的には、「もし父が認知症になったとして、このオー・シャンゼリゼを背景にジェミニを見たら、少年のように輝く笑顔でそれを見るのだろうか」というビジョンが脳裏をよぎったのだ。

私は父とワンルームで同居をしているので、彼がいびきをかきながら寝ているのを視界の橋に収めながらこれをしたためているのだが、だからだろうか。

私は自分の感情から一歩引くことをしがちなので、どうしても熱中したり少年のようにワクワクするような表情をすることは少ない(はずだ、少なくとも内心において)。

対する父は昔からちょいちょい私に対して「お前にそれは無理だ」とか、呪いになるような言葉を吐くことがあるのだが、そんな父が度々見せる少年のような表情に嫌悪を抱くでもなく、ただただ彼らしさをそこに見る気がして、なんとなく静かに閉口する。

 

この感情をなんと名状するのか、私はまだわからない。

けれど彼が老いを経て、人としての形を解れさせていく時期が来たら、味わい続けるであろう感情であるということは、目頭の涙が訴えていると思う。