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fragment

断片と断片の連想ゲーム

毒親と、「子供らしさ」と「大人らしさ」、そしてそれを押し付ける人々について。

quote Etymology Stimulus Path

はじめまして。中2男子の母です。息子に携帯を買い与えたら、メールの内容が悲惨な... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212476557

 

怖い気持ちでメールを除いてみると・・・
内容が明らかに異常なのです。
中学生の携帯メールの内容といえば【勉強がんばろう】とか【宿題終わった?明日の持ち物は●●だよ】みたいなのを想像していました。が、現実は悲惨。
これはメールの内容の一部を抜き出した文です。
【●●ってカワイイよな~】【俺◆に告られたw笑】【テストとか確実に死ぬっしょ】【チン毛生えた?】
手が震えるのを必死に抑えていたら、見知らぬ女の子や男の子(同年齢にたいです)の写真が添えられたメールも・・・

 

/前置き

個人的に、毒親の文章というのは3つの特徴があるように思う。

  1. その話題の中に出てくる敵視している対象がどれだけ非常識でありえない存在かセンセーショナルに書いていること
  2. 自分の感情を過剰に演出することで半強制的に読者の共感を求めていること
  3. 自分の立場が常に悲劇のヒロイン・正義の味方として描かれていること

この前提に基づいて、上の引用元はテンプレートのような毒親の文章だと僕は思うのだけど、なかでも個人的に引っかかった表現がある。「中学生らしさ」という表現だ。

 

「らしさ」というのはありふれた表現だ。では、らしさとは何か?

村瀬鋼という人物に依って書かれたこの記事、「らしさ」概念の射程(http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-29-04.pdf)によれば、

「らしさ」は日本語のごく平凡な言い回しであるが,仔細に検討してみれ ばそこには実に豊かな含みがあり,この単純な言葉のなかに,表象文化をめ ぐる多様な諸問題が要約的に凝縮されているのが認められる。 

 とある。

この文書はとても食指そそる内容で、エピファニー(納得・発見における快感のこと。Epiphany)を覚えるような刺激的な記事だったので、諸兄諸姉はぜひ読んでもらいたいのだが、それはさておき。

「らしさ」とはなにか?という疑問については、この文書においてのとある部分が端的に、そして巧妙に答えているように思う。

「らしさ」への関心は,本来性(authenticité)への関心である。

本来性への関心、これ以上にしっくり来る表現はないように思った。

つまり、毒親的と呼ばれる彼ら彼女らが子どもや敵対する対象を非難し、全否定させる論拠というのは、物事の「本来性」なのだろう。

 

/生徒指導と学生らしさ

個人的な経験を参照するのなら、私が中学の時とか、逆三角形体型の熊のような体育教師が身だしなみや風紀を厳しく監視していたのだけれど、そのような立場にある人の口から決まって飛び出すのは、「学生らしさ」という単語だった。

とはいえ、生徒手帳や生徒指導顧問の脳内に描かれているような「学生らしさ、子供らしさ」という言葉に凝縮されているのは、大人の都合のいい人物像に過ぎないように思う。

それがどういう人物像かといえば、あまり想像には難くない。勉強熱心で、意思疎通に支障なく、健全な(笑)精神を持ち、スポーツにも打ち込んでいる、素晴らしい人格を持った十代の男女。

端的に彼らの好むような表現を列挙してみたけれど、それだけでも「ああこれだよこれ」感がある。

 

個人的に昭和の人気漫画というのは、このような人物を文字通り絵に書いたような存在の影がちらついているような印象がなんとなくあるのだけれど(エースを狙えとかスケバン刑事とか)、

かような人物像の特徴をよくよく平均して見ると、「人間特有のあまり褒められたものではない部分」が決定的に省かれているように思う。

つまり、彼らは「人間が抱えうる自分の内にある嫌なところ」が目につかないように、第三者や他人(この場合は生徒)の所為にして、弾圧をするのだろうな、と。

 

しかしそう考えるとすこし面白い。何がといえばつまりこうだ。

若い時はどうしても、理想像を意識しすぎるあまり潔癖になってしまって、その頑なさから時には誰かを否定してしまったり、友人を喪ったりしうるものだけれど、これは若い人に理想像を押し付けて、自分好みにしようとする大人も同じではないか?つまり、若さゆえの潔癖さが抜けていないではないか。つまり、彼らが一番彼らにとって”学生らしい”のではないだろうか。

さらに言うのであれば、理想的な子供らしい子供を教育することに熱心な大人と言うのは、”自分たちの抱えている本来性”に、自分ではない子供を当てはめることで間接的な自己実現による快感を憶えているのではないだろうか。

 

/マニュアルと本来性

そう考えると個人的には「じゃああなた方で勝手に学生生活やり直してて、どうぞ」って言いたくなってしまうのだけれど、結果として彼らのような存在が学校という集団の秩序を保つことに機能しているのも事実ではある。

(アメリカの高校にはそのような存在がそもそも居ないことが大半で、それでも機能していた気がするけれど、学校の在り方が根本的に違うのでそこはフェアな比較ではないだろう気もする)

これはあくまで推測にすぎないけれど、彼ら彼女らのような人々はおそらく、他人の描いた本来性に当てはまることで生きてくるのが当たり前だったのだと思う。普通だとか、子供らしいとか、そういうものだ。しかし、社会にでることで付き合う人間の分母があっという間に広がるために、今まで指標にしていた本来性と言うのは途端に揺らぎ、基準にする生き方が通用しなくなる。

そういうのを騙し騙し生きていくのは可能だけれど、結局そこの不満は解消されないままだ。そのまま自分が親や教師などの権力を持つ立場になると、他人をどうにかしようとするんだろうと思う。ある意味では、「最近の若者はけしからん」という考え方もそうなのかもしれない。

自分の欲求が相手に理解されると思っている点においては、最近タイムラインで見かける”膜”の話と繋がるところがあるような気もするが、それはまた別の機会に書くとしよう。

 

(次の日記へ続きます)