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fragment

断片と断片の連想ゲーム

誕生日を迎えて

 

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近況報告と最近の考察も含めて。

 

 /病状、振り返って。

最近、精神状態の改善が著しい。なにがきっかけはわからないけれど、頭のもやがどんどん晴れていくようだ。感情的になってもブレーキが掛けられるようになったし、理不尽な振る舞いをすることが少なくなった。自分ひとりで自分の感情を受け止めるということが、また出来るようになったのだ。

ほかにも、徐々に自分の好きなものや、感情を今までよりも微細に捉えられるようになってきているのも大きな変化だと思う。世間一般では「うつ病になると、食事が砂のような味に感じる」とか言うけれど、僕の場合はすべての情報が褪せて見えた。味も音も感情も大味になって、粗雑で無意味なものに知覚されるというか。

そして、なによりもそれが上手く認識できないというのが厄介な点である。飽きたというより、失望してしまって、その感情や意義がわからなくなるのだ。まるで私達の網膜が日光で劣化して、知らないうちにじっくりと時間をかけて写真や絵画が色あせていくように、世界すべてが留まる意味のないような、まるで退屈なものに見えていたと思う。

その高低差に気づいたのは今月に入ってからで、今は徐々に、近くできる情報一つ一つの魅力が見いだせるようになってきている。本を読んでも目が滑りづらくなってきた。

改めてこんな状態で短大を卒業して帰国できたのは奇跡と努力の賜物だったんじゃないだろうかと思う。

 

/再認識と私と、意味

そしてそれは私という人間がどのような人間で、どのような形質と特徴を心身に持っているのか再認識する手助けにもなっている。特に今は心理的な気づきが多い。

 

たとえば。

  • 「私は思想や行動において、基本的に自分の求めるものを明確に自覚するまでにしばらくの試行錯誤を要する」とか
  • 「暗示的知識が多く、明示的に説明することが不得手である(つまり、知っていることを具体例で漠然と説明出来ても、論理的かつ明解に明晰に説明できないのだ)」とか
  • 「それほど器用な方ではない(折り紙の薔薇が折れても、細やかな造形は粗雑なものになってしまい、完成度を高めるのに時間がかかる)」とか。笑
  • あとはこちらのまとめ(あなたは「同時処理」と「継次処理」どっちのタイプ?)において、経時処理のタイプであり、慎重さも極まって、具体的進捗の確認作業を逐一挟まないと上手く行動できない、とか

 

そしてそれらの不得手なことたちは私がどうなりたいかを自覚させ、行きたい方向を指し示してくれていると思う。だから私は出来ないことを克服して、人生を心地よくしていくのが好きだと知った。

もしかしたらすでに現れているかもしれないけれど、言語能力も取り戻しつつあるように思う。詩的な見栄えとある程度の端的さを優先した、そんな文章が自分の求めるところなのだと、今書いていて再認識したところなので、本当に今、私は私を取り戻しているのだと思う。

 

/24歳、ということ

そしてTwitterで散々構ってちゃん行為をかまして知らしめたように、17日で24歳となった。あと一年で四半世紀で、ついでに脳と体の成長が止まる時期とされていたはずだ。もちろん、脳に関しては学習は出来るしシナプスも形成されるので、そのままずっと言うことではない。乳歯が抜けて歯が揃うようなものだろう。

とはいえ私は二年前までかなり焦っていた。25歳になるまでに伸ばせるだけ伸ばしまくってやると漠然と自分のパワーレベリングに気合いを入れていた。とはいえ今思えば、2014年に倒れて体が動かなくなる前の時点で、私の体は少しずつストライキを起こしていたのだと思う。

まあなんにせよ、そんなわけで25歳というのは個人的にはちょっとした節目のはずだったのだ。

密かにつけている日記から、誕生日から十日前のものを引用してみるとそれは明らかだ。

「2月10日。誕生日まであと7日。もう24になってしまうのかとそんな、感慨すら、実感すら湧かないけれど、きっとその時はすぐに来てしまうだろう。そしてその日まであと一年だ」

その言葉の通りすぐに来た。そして今ここにいる。
日記はそれからこう続く。

こうなりたいと願うことさえせず、ささやかでも挫折や成功を積み重ねることもしないまま、活きるのはあまりに無だ。

私は死んでいない、それだけだ。

まあ、端的に鬱に引っ張られた記述だ。笑って欲しい。
とはいえ、当時の自分はこれで日記を終えなかった。

「でも、思えばそれは、今日ここにあることこそ、一番大事だったのかもしれない」

日記は、小さく書かれたこの一文で終わっていた。

 

そして今の私もそう思う。より強くそう思う。
何を成してきたか、何を成すか、それ以上に今、私がここにあること。
それが純粋に喜ばしい。それだけはなぜか少し誇らしい。

生きていてよかったと、なぜかそう思える。
そしてそれは、過去私と関わってきたたくさんの人々がいたから成就したことだ。
まあ、呆れるほど月次な事実である。そしてそれを再認識したわけだ。
直接お礼を言えない人は少なくないけれど、ありがとうございます。おかげさまで(人によっては残念ながら?)まだ生きています。

 

というわけで、長くなったけど24歳の私とこれからも、よろしくお願いします。