失敗を認められないということと、ナルシシズムについて。
浅ましさとナルシシズム
ハイデガーはナルシシズムについて、「自分が周りからどう見られているか、という事に対する不適切なまでの執着」というようなことを言った。とはいえ、人は自分が関心を持っている集団からの評価には敏感にならざるをえないように、ナルシシズムというのは誰でも持っているものだと思う。ハイデガーのいうナルシシズムや、世間でナルシストと見做されるような人は、中でもそれに執着しすぎる人なのだろう。
例えば、アニメなんかにいる悪い政治家みたいなキャラクターはナルシシズムに囚われているように思う。「貴様私を誰だと思っている!」「お前のような人間が偉そうに」などの浅ましいセリフを吐くようなキャラクターだ。Fateの間桐慎二なんかはいい例だろう。
案外、このような人物は現実世界にも結構いるもので、あまり頭の回転がよろしくなければそうあるほど、馬脚を現すのも早い印象がある。しかし往々にして、周りの人間の功績にあやかっているだけの事が多く、またその割にセルフイメージが実体とかけ離れて大きい傾向がある。
彼らのような人間は、人生を通してナルシシズムを伸ばす経験を過剰にしてきたと言えるだろう。過剰に褒められたり、甘やかされたり、自分の実力に見合わないレベルを等身大だと思ってしまうような育ち方をしたのだと思う。
加えて、人間というのは周囲の人間が成功したり、有名になったりすると自分も誇らしく思ったり、精神的に自己肯定感が増すことがある。が、彼らの場合、自分の実力が伴わない形で周囲の功績に、偽りのセルフイメージが支えられる形になっているのだと思う。ゆえに、当人の内面に踏み込むと「俺の親戚は凄いんだ」などという自慢しか出てこなくなる。実績がないのだ。
それゆえ、今まで築き上げてきたと思っている、虚像の自分の評価にこだわりすぎるために間違いを認めることができない。嘘を付いた手前、引けなくなった子供のように。
なぜなら、虚像の自分しか彼らには無いからだ。
ナルシシズムとサンクコスト、面子。
間違いを認められない、もしくは昨今のネットにいる「謝ったら死ぬ病」の人々を見るたびに、心理学教授である知り合いが、政治家と博士号所持者は間違いを認めることが出来ないと言っていたことを思い出す。
このような人物を見ていくと、ナルシシズムだけでなくサンクコストの問題もここに関わっていることがわかる。ある間違いを認めることは、自己の支払ってきたコストに対する沽券に関わりかねないからだ。
沽券に関わる、という言い回しは本来、「面目・体面にさしさわりがある」という意味だが、体面というのは厄介なもので、それに囚われると自分の本来の意図とは違うところにことを運びかねない。
以下のツイートが非常に巧くそれらに関して言及していると思うので、引用させていただく。
歴史や政治を「名誉」という尺度で語る言説が増えてきたが、実際には彼らの言う「名誉」は「面子」でしかない。名誉と面子は似ているので錯覚しやすいが、決定的な違いは「名誉」は自分の失敗や瑕疵を認めても「認める態度」によって保たれるのに対し、「面子」は自分の失敗や瑕疵を認めると失われる。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) September 24, 2014
自分の失敗や瑕疵を指摘された時「他の連中もやっているのになんで自分だけが」と感情的に反発するのも「名誉」ではなく「面子」にこだわる人間の特徴で、価値判断の尺度を内面でなく「他人からどう見えるか」という外面に置いている。失敗や瑕疵を認めて「他人から見下される」ことを心底から恐れる。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) September 24, 2014
「名誉」でなく「面子」にこだわる人間は、交渉では「実質的勝利」でなく「形式的勝利」を求めるので、名を捨てて実を取るという「譲歩」を行えない。「面子」にこだわる人間は「形式」に思考を支配されているので、名と実の違いすら認識できない。失敗するとわかっていても、他の方法を選択できない。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) September 24, 2014
失敗とナルシシズム
人は失敗する。そしてそこから学んで、適応していく。
そもそも、失敗や過ちというのは一側面にすぎず、目的を持った場合にのみしか現れない。失敗というのも状況によってころころ変わるものなのだ。
が、漠然と義務意識や強迫観念を抱いている人は、人生のイベント全てに特定の失敗を見出すのが上手な傾向があるように思う。そのような性質を抱えながらも、失敗という見方で事情を上手く受け止めることが出来ない者は、それらの認知さえも回避する。
言い訳だったり、屁理屈だったり、嘘によって。
もちろん大体の場合、すぐに周囲の人物や状況によって否応無く認めることになる。だが、身の回りの人間が同じ体質である場合、「私達は間違っていない」という認識を高め、その正当化のために彼らはより過激な動きをする。
このような人々に共通する認識は、「自分のしてきたことが間違っていない」というものだ。*1
認められなかった過去の自分や周囲の報復行為も兼ねて、自分の行為の正当化を行動で成就しようとしているのだと思う。ある種のルサンチマンとも言えるかもしれない。
しかしそれも言ってみれば、自分で自分の行為を精算できない未熟さがあるからこそ、第三者や自分が責任を負わなくていい存在に、行動の正当性を判断させたいのだと思う。
つまり、自分が未熟であるという認識から逃げようとするからこそ、むしろ未熟であるという認識に強く囚われてしまうのだ。
*1:そもそも、「お前は間違っている」という文章の中には、どこか存在の否定のニュアンスが伴っているように思う。確かに、「求めている解答からは異なっている」と言う意味で、間違っているという判断は正しい。が、それが「お前は存在すべきでない」というようになってしまうのは論理の飛躍であり、発言者の理不尽であり、また事実を歪めた主張であるように思う。当然、看過できない主張というのはこの世界には存在するので、自分を守るためにはそうも言ってられないこともある。その連続性のなさこそ人間らしさだと僕は思う。しかし、同時に不倶戴天の敵の主張を、社会という受け皿で受け入れるのが表現の自由のあるべき姿だとも思っている。