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断片と断片の連想ゲーム

感情の成長と管理、そして好循環について。

 
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感情というのは部屋に充満する空気のようだ。時に悪くなるし、時に良くなる。閉じ込めているばかりでは淀んでいく。開けっ放しでは寒くなるし、閉じっぱなしでは暑くなる。そんな感情について今日は書いていきたい。

 

/感情の成長について


そもそも、感情というのは生まれたばかりの頃、人間には快か不快かという感情しかない。そこから成長するに連れて徐々に感情は枝分かれしていき豊かになっていくが、感情が実際に動く経験がなければ、枝分かれはしていても、それを形容する手段もなければ、管理する手段もない。

例えばすぐに怒る人というのは、不快というカテゴリーにある感情の中に感情のバラエティがあっても、それをさらに識別するサブカテゴリーが存在しないので、嫉妬も憎みも恐れも恥も全て不快と認識してしまい、結果として怒るか泣くか、赤ん坊と同じような対策でしか発散・解消することが出来ない。

そう言う意味で、ならぬはならぬ、と言って、純真な疑問を投げかける子供に対して叱りつけたり、暴力に訴えたりするような人は、そう言う意味では子供なのだろう。行き過ぎた困惑に見栄がからめば、怒ることしかできなくなる。

要するに、感情というのは勝手に発達しないのだ。雑貨屋さんを訪れるだけでは勝手がわからないように、心や感情というのも時間をかけてじっくり検分していく事でわかっていく。たとえば、キーボードだ。ブラインドタッチというのは日々漫然と文字を叩いているだけでは出来るようになりはしないように、私達の身の回りにある行為というのは、上達や効率を良くするという目的が結果的に伴わない限り、良くなることはないのだ。往々にして、その目的の先に実には更に大きな目的(上達・効率を良くすることで欲しいものなど)があるからこそ、うまくなっていく人は多い気がする。まあ、知ろうという意思、つまり興味がなくては、見えるものも見えない、ということであり、感情もまた同じである。感情というものに意義を見いだせなかったり、直視することを避ける人には、いつまでもそれはブラックボックスとしてそこにとどまる。

 

 

では、わからない感情というのはどのように解明されていくのか?実はこの疑問には本当に自分は苦心した。例えば、自分の場合、信頼と好意、思いやりなどという感情がわからなかった。それらはつまりどういうものなのか?と知りうる人に訪ね続けたこともあったし、手の届く辞書や文献を読みあさったこともある。

けれど結局のところ、未知の感情というのは、未知の感情なりに行使しなくては学び得ない。出来るところから登って行かなくては、山は悠然と、目の前に立ちふさがるだけであるように。

例えば、信頼という感情がある。信頼とはどこから始まるのか?信頼しようと思って始まるのか、信頼できる事柄や条件が満たされてから始まるのか。正直、どちらが卵で鶏なのか、そしてどちらが先に来るのかは検討もつかないし、場合に依ると言ってしまえばそれまでなのだから、私は悩みに悩んでいた。 

 

/鶏と卵と友人。

しかしある日ひょんなことからヒントを得た。挫折をした友人の話を聞いていた時のことだ。

彼はとある出来事から卑屈になり、消極的になり、ダメなことを潜在的に探し、期待してしまうので結局失敗をして、卑屈になり、できる事が少なくなり、どんどん余裕をなくしていった、とのことだった。典型的な思考と行動の悪循環だった。

話を聞いた時、彼の意識は「何が原因なのか」というところに向いていたため、話題は自然と、「どちらが鶏と卵なのか」という話になったのだが、話は要領を得ず、グルグルと回るだけだった。

そこでふと疑問に思ったので彼に問うてみた、「そもそも、君の目的はなんなんだ?」と。その状況から出ることなのか、それともただ原因をより詳らかに明らかにするだけなのか。すると彼は言葉に詰まったようで、ああでもないこうでもないと言い始めた。どうやら、考えていなかったようだ。

そもそも問題は、どこが始まりかではなく、どのように悪循環から抜けるかであるべきのように僕には思えた。なぜならどちらが先に来ても、一度循環が始まってしまえばそのサイクルを回すことが目的になってしまうので、どちらが先かというより、なぜそのサイクルを回そうとするのか、ということに問題解決のヒントが隠れているのではないかと思ったからだ。つまり、彼の第一の問題は、どこが始まりか?という疑問に囚われて、その疑問の解消に追われていたことだったのだ。

 

/循環というものについて。

そこに彼が気づいてからは、話はあっという間に収束し、まもなく悪循環から抜けだしたのだが、そこでなんとなく、循環というものの構造を掴んだ気がした。

というのも、循環という行為は循環し続けることが目的なのだ。

それが第一の目的であり、それを踏まえてその先の大目標にたどり着くことにある。これは自転車がいい例で、漕ぎ続けることがまず先に出来て、その後に目的地へたどり着く、というタスクに切り替わっていく。

これを彼の悪循環に切り替えた時、思考を進ませるために負の思考を進め、次の負の思考に辿り着き、また進めて、結果的に悪条件を揃えてしまうのでさらにトラブルが発生する。
彼の原動力は「この先もうまくいかないのではないか?」という正体のない疑念だからこそ、なんとなく上手くいかない結果に向かって走りだしてしまうし、そして進めば進むほど絶望は深くなっていった。これは自分で穴を掘り続けるようなものに等しいのかもしれない。

では、これを好循環にするためにはどうしたらいいのだろう?「なんとなく上手く行きそうな気がする」という思いを手に入れることだろうか、それともいい結果の出せる行動をして弾みをつけることだろうか。

個人的にはどちらでも良いように思う。ただ、結果として行動を先に起こして、その行動で目指すノルマ(とりあえず終わらせることとか、始めることでもいい)を果たすことで、弾みを付けて回していくのがよいように思えた。

結果として、モチベーションとタスクなどでこの推論をもう少し正確にしたところで、実際に信頼という感情を手に入れるために、自分なりの信頼からの行為を相手にしてみた。

すると、自分なりの信頼を相手に表明するような行為をする度に、自分の心地よい信頼とはなんなのかということが分かるようになってきたので、おそらくこれは感情の開拓にも使えるようだ。とはいえ、もちろんこれは一例にすぎないので、人に依って効率のいいやり方というのもある気がする。

自分自身、目下好循環に陥るステップを使いこなせるようにしているところなのだけれど、案外周りの何かに秀でている人というのは、この好循環に陥っていたり、もしくはなんらかのアプローチで、その物事に誠実に接しているような気がしてならない。他の方法もどんどん試してみたい次第である。