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fragment

断片と断片の連想ゲーム

問題解決と経済学、自信が無いことに自信のある人について

 
 
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 /前置き

すこし、アドラー心理学のような事で、同時に先日の記事(個人的経験に基づいた、完璧主義とその解決策について)で書いたことにも関わってくる事であるが、何かを避けるための行動は何かに向かうための行動とは結果が異なる。こう、ひとことで言えば「あたりまえじゃないか」という気がするが、案外その誤謬は日常生活のなかであるものだ。

たとえば、「次から繰り返さないようにする」という表現がある。聞こえとしては良いけれど、それはつまり「効率よく成功させる」わけではなく、単に「同じ間違いを繰り返さないようにする」だけであって、仮にこのミスの原因が効率の低下に関わるものであれば、ミスはしなくなっても効率は変わらないままになってしまう。

人ことで言えば、失敗しないように動いていれば失敗はしないかもしれないが、成功はしないということだが、これをもうすこし掘り下げてみれば、問題は「解決基準の設定」にあることに気づくはずだ。

 

 

/解決基準の設定

私達が問題に当たった時、どこまで言ったら解決とするのかというのは重要だ。なぜなら、解決の定義がはっきりしていなければ解決は成し得ないからだ。

では問題とはなにか?問題とは大辞林いわく、処理や解決を迫られていることだそうだ。つまり、自分や主体となる個体の目的の成就を阻みうる障害物のこと、である。

しかし、問題の解決に置いて、自分の目的が明らかになっていない事は少なくない。たとえば、当たり前の日常の維持が目的になっている場合、「日常の中の当たり前」というのがつまりどういうことなのかがはっきりしていないので、自分が日常の中の当たり前に何を求めていたのか理解する必要性が出てくる。

このような、自分が理想とする状態を見極めずに解決基準を設定してしまえば、問題は解決したがなぜか不十分な結果に終わってしまう、という状況に陥る。

 

/誤謬を認め受け入れること

もちろん、これでは目的の成就はすることが出来ない。しかし、私達はそれでも治すことを潜在的に忌避してしまうことがある。自分の行動に誤っていると認めることが出来ないのだ

そのまま、ずるずると自分の欲しくない結果に繋がる、すべきだと思った行動を続けることで、求めていない結果が手に入るので焦りが募っていき、最終的に挫折を味わったり、誤った自分のイメージを自分で植え付けて、自己防衛に走ってしまう人は少なくない。

自信がない人などはそのいい例だ。自分に自信がないと思い込んだ人は「自身をつけるためになにかをしなくてはならない」などと口にする事が多い。しかしこれは言い換えてみれば「自信のない自分を否定して、消すための何かが欲しい」というものにすぎない。もっといえば、そこには自己否定の欲求が潜んでいるような気がしてならないのだ。
なぜなら、上の文章を更に言い換えれば、「自分自身が嫌いだと思う、存在すべきでない部分の自分をなかったコトにしたい」なんて解釈の仕方さえ出来てしまうのだから。

つまり、自信の有無は彼らにとってどうでもよく、やっている事自体はきっと、『受け入れられない自分への困惑を惨めさと解釈している』だけに過ぎないのだと思う。

ではこの誤謬はなぜ発生するのかといえば、それは自己防衛のためだと言えると思う。自分の受け入れられない自分もまた自分なのだ、という風に今までの固定観念を上書きすることで発生しうる未知の状況に対して身を守ろうとしているから、その誤謬をそのままに、自らの変質に抗おうとしているのではないかと思う。そもそも、自信というのは副次的に発生するものであって、自信単体で得られることはないと思うのだが、そこからして認識がずれているような人物が多いような気もする。

 

この在り方をすることはいくつかメリットが有る。

1つ目は、前述のとおり、自分の在り方を変えずに、過去の素晴らしかった自分にだけ浸っていられる。

2つ目は、惨めな自分でいることで弱者として尊重されることが出来る。つまり、過去の尊重されていた自分の疑似体験が出来る。

3つ目は、足りないものを求めようとする心理(ナルシシズム)を一時的に満たす事ができる。私は惨めだからもっと施されるべきだ、という心理を満たせるのだ。

以上の3つがメリットである。

 

/限界費用と限界利益

経済学には限界費用と限界利益という単語がある。それぞれ、更に消費することで消費される更なるコスト限界費用で、更に消費することで得られる更なる利益限界利益だ。そして経済学において効率とはこの2つのモノの関係性によって定義される。

 

端的に言えば、

限界利益限界費用の場合は効率がいい。なぜなら支払う対価よりも利益の方が大きいからだ。故に私達は行動を続けることに成る。
上の例で言えば、現状の維持によって得られるメリットの方がデメリットを上回らないので自信のない自分に固執する

 

限界費用限界利益の場合は効率が悪い。なぜなら支払う対価の方が得られる利益よりも大きいからだ。故に私達は行動をやめる。
つまり同じく上の例で言えば、現状の維持によって得られるメリットがデメリットを補いきれない時、私達は固執するのをやめるのだ。

言ってみれば、心理的なデメリットが増えれば私達は上記のような負の循環から抜け出すことが期待出来る。

 

/デメリットを増やすために

ではどのようにして心理的なデメリットが増やすことが出来るだろう。
安直に考えれば、今までやっていたことの逆のことをすればいいような気がしてくる。が、それは右から左へ行って嫌なものに遭遇したなら、左から右へ行けばいいというようないささか短絡的な発想にすぎない。右か左しか選択肢がないわけではないのに、そのどちらかに当てはまろうとするのはいささか視野が狭すぎるといえる。

ではどうすべきか?これは既に前述してある。つまり、自分の理想とする地点はどこなのか再認識することから始めるべきだ。これは以前も使った比喩ではあるが、道に迷ったら地図を探し、地図を見て、行きたい方向と現在地点の確認をして、道を理解した上で覚えて歩き出すことが必要なのと同じである。

心理的なデメリットを減らすことを目的にしている状態というのは、既に自分の現在地を把握できている状態だ。なので必要なのは目的地の情報である。自信のない人に関して言うならば、自分はどのような在り方をしたいのか?それに対して今はどのような在り方なのか?という事を考えることが必要になる。

もちろんどのような在り方が自分の理想なのかということを詳しく書き連ねることは現時点では無理かもしれない。なのでここは敢えて時間を取って自分の理想像を描くことから始めてもいいだろう。目的地がないならば、自分の欲求を元に作り出せばいいのだ。

その方法は必ずしも一つじゃないので、身の回りの好ましい人の、自分が素敵だと思うところを明確にしてみるのもありだし、もちろん今の在り方とは違う在り方をしてみる、ということを重ねて自分にしっくり来る在り方を行動することで模索するのもありだ。

/理想を思い描いたあとに

では、理想像は描けたとする。もしくはしっくり来る在り方がなんとか見えてきたとする。それからどうすればいいだろう。徐々に近づいていけばいいだろうか?個人的にはこれが好ましかったのだが、正直上手く行かなかった。自分は料理が上手になりたかったのだが、レシピ本を適当に買ってすこしづつつくろうとしても途中でやめた。自分の対して好きでないレシピを作る労力が無駄に思えてならなかったからだ。

では、そこからどうしたか?自分がしたのは「その理想的な在り方をしている自分の在り方をそのまま再現してみる」ということだ。つまり、料理をつくるために包丁の使い方を学ぶのでも、レシピ本をマスターするところからでもなく、好きなものを作ることから始めて見る、ということだ。これは最初はもちろん上手くいかないが、結果として好きな事が最初にできるようになって、また他の好きなことばかりが出来るようになっていくので、自分の理想的な状態にたどり着くためには効率がいい。

/まとめ

自信がないという人もこれと同じだ。自分が好きな自分の在り方を一つ一つ手に入れていけばいい。自分が嫌いなら、自分ではなく、周りの大事な人が信じて好きだと行ってくれる自分の部分を伸ばせばいい。大事な人がいないなら、大事な人を作ればいい。そのためには他人に関心を持たなくてはならないので、関心を持って行動すればいい。

卵か鶏かとでも言うような話だが、結局自信も信頼も興味も内なるものであって、最初のあるという感覚は錯覚と大差がない。故に自分のなかで些細な変化が在れば、それを追いかけてみればいいのではないだろうか。

もちろん、その些細な変化がネガティブなものなら、それを追えばネガティブなものしか見えなくなっていくので注意が必要だ。自分が車やケータイを手に入れた直後は、街中でやたらと自分と同じケータイや車があることに気づくだろう、それと同じだからだ。

 

私達はもともと欠けてなどいない。最初からその形なのだ。その欠けた部分を埋めようとしたところで、自分ではないことがはっきりするだけで上手くいかないことがほとんどのように思う。だから、すでにある物を伸ばせばいい。ポーカーが手札を元に勝負をするように、今あるものをどう使うかが大事なのだ。