fragment

断片と断片の連想ゲーム

かもめのジョナサンと愛することについて

 

"ジョナサンはため息をついた。誤解されるというのはこういうことなのだ、と、彼は思った。噂というやつは、誰かを悪魔にしちまうか神様にまつりあげてしまうかのどちらかだ。"

 

 

今年の3月、かもめのジョナサンの完全版が出版された。日本では7月に電子書籍版が販売された。僕はメンテナンスをするように、自分の内面に変化があるとこの小説を読む。この、自己啓発とも小説とも、ファンタジーとも言いがたい作品は、読む度に僕の胸の内に、邂逅とも言えるような納得と、寄り添うような疑問を残していくのだ。そしてその感覚がどうしても癖になり胸に懐くもので、自分のベンチマーク的な位置づけの本であったように思う。

 

しかしこちらに来るときに持ってくるのをすっかり失念してしまい、二年が経った数ヵ月前に完全版が出版されることを知って、虎視眈々と機会を伺っていたのだが、とうとう購入することが出来、数時間ほどで読み終えてしまった。

読んでいる途中はまるで母校を訪ねて、懐かしい校舎を散策しながら、「ああ、こんなこともあったなあ」と感慨に耽るような感覚を覚えていたように思う。そして母校に赴任した当時の同級生を尋ねるような、そんな本だった。

完全版、ということだったので、あそこからどのように続くのか、と言うのは確かに気になっていたが、蓋を開けてみれば腑に落ちる終わり方であり、同時にもたれるような終わり方でもあった。個人的には第二章の途中までしか最後に読んだ時は実感を持って読めなかったのだが、今となってはあともう2割くらい、というまでのように思う。

最終的にフレッチャー達生徒を置いて、次なる何処かへ旅だったジョナサンは、旅だった海岸にて崇め奉られてしまい、それからは彼の言ったこととしたことではなく、存在とその逸話のみが独り歩きしてしまった。望まない形で人々が利益を受けているという意味では、ある種搾取とも言えるような扱いだ。そしてそれに嘆くジョナサンの弟子たちは骸として土に帰り、周囲はそれを信仰対象として葬ることで消費した。なんだか、現代でのメディアが成功した人々の死をいい思い出として演出し、商売のネタにするようなものと、似たようなものを覚える。

そこまでに語られた、ジョナサンの言う愛と、自らとの邂逅などについては、この二年で辿りつけたように思う。自らの邂逅というのはどういうことかといえば、この言葉がとてもわかり易いと思う。

"もうきみにはわたしは必要じゃないんだよ。きみに必要なのは、毎日すこしずつ、自分が真の、無限なるフレッチャーであると発見しつづけることなのだ。そのフレッチャーがきみの教師だ。" 

 言っていることはグレンラガンのカミナのセリフ、「お前が信じるお前を信じろ」とメッセージは同じだと思う。要するに、誰かが期待する自分でもなく、誰かが信じてきた自分でもなく、今までの自分の延長線としての自分でもなく、「こうありたい」と願った姿を常に見据えろ、ということなのだと思う。この概念は実のところ消化中で、未だ自分の血肉になっていないように思うので、あまり言葉としてはそれらしくないけれど、ただ、それでもだいたい見当は付いているので、これに関しては今月中、あわよくば今週中に書いていきたい。

もう一つの、ジョナサンの言う愛というものについては、アルフレッド・アドラーの共同体感覚というものが一番近いものではないかと思う。

本文いわく、

"きみはみずからをきたえ、そしてカモメの本来の姿、つまりそれぞれの中にある良いものを発見するようにつとめなくちゃならん。彼らが自分自身を見いだす手助けをするのだ。わたしのいう愛とはそういうことなんだ。"

 自らを鍛える、という表現が律するということなのか、それとも他の意味なのかはすこし考える余地があるが、それにしても言っていることの内容自体はある種、大人とは何か?という回答の一つにもなりうると思う。つまり、その個体が何をしたかではなく、その個体とはどのような何なのか、ということを受け入れた上で、その対象の良い点を引き出し、伸ばし、育み、共に歩んでいくことが出来ることが愛なのではないだろうか、と私は解釈する。

言ってみれば愛とは、その対象がどのような事をしてきたかでもなく、どのような存在かということでもなく、また、これからどのような事をしていくか、そのどれにも着目することはせず、真摯に、その個が個として今をどのように生きるか、ということに着目し、それとそれを行う者に対して誠意を以て接することではないか、と思った。つまり、愛するとは、嫌いなことも好きなことも愛すことなのかもしれない。