fragment

断片と断片の連想ゲーム

刀鍛冶と軸について

 

 

 

 

"伝統工芸に携わる人間は、どうしても自分の技術を伝えようとする場合に、時代に迎合する方向に走っていきます。そうすることに依って、私たちの技術が本質を外れていく。ですけれども、本質を外れてまで伝統を伝えることは、意味のないことだと思っています。"

 /前置き

何事にも軸というものがある。

体の軸、大黒柱、社会の軸、地軸、などなど。

軸については、先日の日記(参照:軸という概念について)で少し紐解いてみたけれど、この動画のインタビュイー、渡辺惟平さんいわく、伝統工芸の軸というのは本質を伴った技術だという。そして、それは言い換えて見れば伝統工芸が時代に迎合することは、軸を失うことだと僕は解釈した。

つまり、その結果に生まれるのは、伝統工芸の形をした別の何かになってしまうということ、形骸化なのだと思う。

/真実のナニナニ

この構造から連想するのは、「本当の私」「真実の愛」「真の成功」などという、真が枕詞に使われているような言葉たち。
たとえば、「本当の私はこんなんじゃない」というような言葉をいう人は少なくないが、本当の私とはなんだろうか?

 

それは特定の事をしている自分?それとも、特定の場所にいる自分?

どれも自分という点では変わらない。きっと、特定の行動をしたあとで戻ってくる在り方、というのがその言葉のニュアンスなのではないかと思う。自分の行動の平均値、みたいな、振り子の特定の振り幅の中央のような。

バネは常に特定の在り方に戻る。しかし特定の状態で固定してしまうと、その特定の在り方が変わってしまう。多分、これが「本当の自分」であり、伝統工芸の軸、という言葉の表現したいことなのではないかと思う。

 

/軸とアイデンティティ

物事は、そして人は変質する。同じもの、人に、環境に、出来事に因って。
そしてそれらは往々にして不可逆だ。「退化してしまった」「戻ってしまった」と思っても、その実時は進んでいる。だからそれは戻ってきたのではなく「そういう軌道を描く運動をした」ということなんじゃないだろうかと思う。音波でいうサイン波が、必ず中間地点を通るみたいに、振り子が特定の軌道を描くように。
運動という意味ではみな同じなのだから。

 

http://www.swharden.com/blog/images/IMG_5284.JPG

 

そう考えると、いわゆるアイデンティティと呼ばれるものは、上で言ったような、バネの戻ってくる位置のような軸なんじゃないだろうか。そうなると、自分の軸というのは自分で自覚するのは意識しなければ難しい。どれくらいの周期で自分の軸に戻ってくるのか、そしてそれはどのように知覚するのか、ぼんやりと考えてみてもワンステップではいかないように思う。

でも、バネの軸が変形するためには特定の位置に固定されていなければならないように、私達人間が特定の状態になりたいと思った時、必要なのは型を付けることだ。

そう考えると、伝統工芸のような長い歴史が紡いできたものは、大いなる軸なのではないだろうか。幾星霜の中、数多の人々の軸を平均して、出来たとある軸の形、それが、伝統なのではないだろうか。だとしたら、マイクロで見れば迷走でも、マクロで見れば細やかなバネが特異な軸の取り方をしただけにすぎないのではないのか。

もちろん、それが積み重なれば、他の大いなる軸と同じ形になってしまい、一つになってしまうのだと思う。それが、渡辺さんの言う「軸が損なわれた技術」なんじゃないだろうか。

 

今の自分はどのような軸をもっているのか、観察してみるのはいかがだろうか。