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fragment

断片と断片の連想ゲーム

盲信と思考停止と、アイデンティティに縛られる人々について

あなたの言う、自分って何?考えたことあるの?

 

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/一つ目の話題 - 視野狭窄と盲信について

とりあえず俺と踊ろう: 明るすぎる懐中電灯は周囲を暗く見せる
http://psichiatra.blogspot.jp/2011/12/blog-post_9746.html

この懐中電灯で足元を照らすと、確かに非常に明るいのだが、あまりに明るすぎて瞳孔が縮んでしまい、周囲の暗いところがほぼ見えなくなるのだ。少し遠くを照らすようにすれば、光が拡散して多少全体を見やすくなる。全体を見ようと思うなら、明りの強い懐中電灯よりは、ランタンのようなもの、あるいは、満月の月明かりのほうがよく見えるだろう。

これと似たようなことが、日常臨床でもあるような気がする。それは精神科に限らず、どんな科でも同じだ。強い光で一点集中して観察しなければならない場面も多いはずだが、全体像を見るためには、少し灯りを落としてみるのが良いこともある。細かい観察はできなくなるかもしれないが、全体像はよく分かるようになる。

 

視野狭窄という言葉がある。
文字通り、視野が狭まって、周りが見えなくなることだ。
これにはいくつか使い方があって、いわゆる緑内障などの身体的な症状の場合と、そこから転じた心理的な意味とがある。

端的に言ってしまえば、心理的な視野狭窄とは盲信のことだ。
たとえば、「これはこうでなくてはならない」という意識で生きていれば、「そうでなくても成立していること」が見えなくなる。

 

 

それは例えば、家族を大事にしなくてはならない、私は成功し無くてはならない、幸せになるためには努力をしなくてはならない、私は痩せなくてはならない、美人でなくては幸せになってはいけない、男(女)は男らしく(女らしく)なくてはならない、愛するとはこうでなくてはならない、朝ごはんはたべなくてはならない、卵は2つ以上食べてはいけない、先生とはこう言う存在で無くてはならない、親とはこう言う存在で無くてはならない、詐欺に引っかかってはいけない、人生で過ちをすることは許されてはならない、世界は平和でなくてはならない、私は普通でなくてはならない。

などなど、身の回りには腐るほどこのような物がある。
しかし、これらは前提次第であっという間に崩れる。

たとえば、私の両親に認められるためには成功が必要だ、と言う前提があるなら、「私は成功し無くてはならない」というのは成立する。
だが、その両親に認められることで得ることが保身ではなくて自分の幸せなら、それは必ずしも唯一の解答ではない。

(そう、たとえば即座にコンビニに走ってどら焼きを買ってもふもふ食べてもいいのだ(`・ω・´)!)

 

/2つ目の話題 - 思考停止することと代替性について

「○○断食」をきっかけにして、"人生"を自らの手に取り戻そう | 小出遥子
http://www.huffingtonpost.jp/yoko-koide/post_8108_b_5625337.html?&ncid=tweetlnkushpmg00000067

「○○断食」の「○○」に入るものは、実はそのほとんどが、かなりの数の人にとって、「ないならないで、なんとかなる」ものだったりするのだ。その発見は、自分自身を強めるきっかけを与えてくれる。いままで当たり前だと思いこんで(もしくは思いこまされて)いたものたちを、すべて「自覚的」に、そして「積極的」に、自らの手で選び直すことができるようになるからだ。

そう、「こうでなくてはならない」 というのはただの思考停止なのである。

今日来ていくものはこれ、こう言う時にはこれ、こう言う状況になったらこうする。
などなど、思考停止は楽だ。
しかし、思考をやめることは活きていないことに等しいと思う。

 

昔、某大学のオープンキャンパスへ行った。その時、AIを専門に研究している研究室の展示を見て、そこの学生さんたちと話したのだが、興味深い話を聞いた。

なんでも、今は蟻の行動パターンはAIでほぼ表現ができるらしい。
つまり、蟻はパソコンの上でバーチャル化することがほぼ可能だということだ。

この話を聞いた時に感嘆と同時に、胸の中につかえるものがあった。
よくよく考えてみると、パターン化された行動はその当人がする必要はなくなるということでもある。つまり、代替性が高い状態だ。

このような代替性の高い状況にすることがメリットになることは少なくない。
けれど、自らにアイデンティティが無くてはならないと考える人にとって、代替性というのは危機だ。

/3つ目の話題 - アイデンティティと代替性

アイデンティティが私が私であるために必要なもののことだとするなら、自分じゃなくてもできることしか自分にはできないのでは?という疑念を抱き始めた途端「私が私である必要なんてないじゃないか」となってしまって自信を喪失したりしてしまう。

言ってみれば、代替性が高い在り方をする人は、アイデンティティを自らの内に見いだせなくなることが多い。何かに挫折することで、「代わりはいるんだぞ、お前が生きている理由なんてないんだぞ」という感覚を覚えてしまう。

 

それをこじらせるたのが、俗にいう右翼などの、集団に所属しているということにアイデンティティを見出す人々だと思う。

彼らと言う存在は全であることでやっと一になる。
つまり自分という単位はそこにない。

度々、「男(女)は〜」という趣旨の発言ばかりを誠しやかにしている人々がいるが、彼ら自身に「あなたはどう思うのか?/どうなのか?」ということを聞くと発言に詰まる。

つまり自分として考えていないのだ。

例えば「あなたは何が誇れますか?」と聞かれたとき、職歴が誇れない、学歴が誇れない、家系が誇れない。日本人であることしか誇れない人たちが結構いっぱいいます。本当は、高いところに自分の理想があっても現実の自分はそこにまったく手が届かない。だから、彼らなりの合理的な選択として右翼的な発言をするコミュニティや、ある種の反原発運動のような極端な思想と活動をしているネットのねぐらに居場所を見つけようとします。とりわけ、右翼的な発言をする彼らのアイデンティティは、実は日本人であること以外ない。そうなると民族主義的な発言をしやすくなるということです。

ネトウヨは、卒業することを知らない|湯浅誠×やまもといちろう リベラル対談| 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

http://toyokeizai.net/articles/-/43797

 

おそらく、逆説的に大衆文化や群れることにNoと言うような人は、そういうアイデンティティの希薄さに潜在的な嫌悪感を抱いているんじゃないかな、と思っている。

 

/最後に

アイデンティティを確立するためには文字通り「これが私」という自分にできないことを探すこと、になってしまう。それが大学生に鳴ってから流行る「自分探しの〜」だ。

しかしこれもまた「アイデンティティがなくてはならない」という盲信にとらわれている。そしてそれにとらわれて続ける限り、自分らしさは損なわれ続ける。

正直、自分は誰か、なんて定義出来てしまう状態こそ代替性が高い状態なのだ。マイケル・ジャクソンがなぜマイケル・ジャクソン足りうるのか、なんてそんなことがわかっているのなら彼の未公開のアルバム、XscapeはJustine Timberlakeではなく彼のクローンが担当したことだろう。

 

「自分が誰か」ということを明らかにすることの目的は結局思考停止なのだ。