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断片と断片の連想ゲーム

Quote:”きれいになりたくない女の子 Miss Just The Way I am”

第13回きれいになりたくない女の子 Miss Just The Way I am:女の子よ銃を取れ Girls Just Want to Have Guns
http://t.co/WFaxKkxq6k

 

今はなきこのサイトから。

 

想像してみてください。どこかの企業に就職し、あきらかに美しいからという理由で受付や広報部に配属され、なぜか自分にだけ、写真撮影のある取材が来たり、打ち合わせなのか飲み会なのかはっきりしない「顔合わせ」に何度も呼び出されて、まるでホステスかお姫様のように扱われることを。

知らない人から、容姿だけを見てそれを賞賛したり否定したりするメッセージが飛んでくることを。まったく好きではない人に、愛想良く対応しただけで「気を持たせた」と関係を迫られることを。

美しいというだけで、あなたがどのような好みを持ち、どのような人物であるのか、いつでもそのことが二の次にされ、容姿のことばかりを話題にされることを。これが、果たしてメリットだと言えるでしょうか。

センスが良くなくても、「何が良いか」という判断を他人の手に委ねてしまえば、自分では何も判断できなくなってしまいます。そこを他人に任せてしまえば「こういうのがいいのだろう」「こういうふうにしておけば、いい感じに思われるのだろう」と、うすぼんやりした視界しかない世界に、あっという間に引きずり込まれます。

 

追記:全文をインターネットアーカイヴで見つけたので以下に転機しておきます。

 

女の子よ銃を取れ Girls Just Want to Have Guns

 「よかれと思って」発される言葉があります。

「スカート似合うんだから、もっとはけばいいのに」

「女の子っぽい服のほうがかわいいよ」

「ちゃんとすれば綺麗なのに、どうしてお化粧しないの?」

 他人の容姿のことに、無神経に立ち入ってもそれが善意なのだと勘違いできるほどに、「綺麗になること」「かわいくなること」は、誰もが望んでいることなのだと思われています。

 このことに対し、「私は、別にそんなこと望んでません」とでも言おうものなら、

「素直じゃない」

「照れてるだけなんでしょ、すぐ慣れるから」

「もっと正直になったほうがいいんじゃない?」

 などと、「綺麗になることを望んでいないわけがない」という前提で話が 進められ、誤解を解こうとすればするほど「だから、そういう性格が素直じゃないって言ってるの!」と、「綺麗さを求めないのは、内面に問題があるからだ」 と言わんばかりの攻撃を受けることになったりします。

 では、人は「綺麗さ」や「かわいさ」を、追い求めるのが当然なのでしょうか。

 

 『美容整形と<普通のわたし>』(川添裕子)という本があります。その中で、国によっての美容整形の捉え方の違いを取材によって浮かび上がらせている部分があるのですが、そこはとても印象的です。

 美容整形の「美しさ」の基準は、欧米の美を基準にしています。鼻筋は スッと高く、目はぱっちりと二重に、というところからして、もうすでにそうでしょう。個人的には、アジアの女性が欧米の美を目指し、独自の魅力を獲得して いるのは面白く好ましい現象だと考えていますが、その話は今は置いておきましょう。

 整形の先進国、韓国では、女性は「綺麗になりたい」から整形をする人が多いのだそうです。ここをこうすればもっと綺麗になれる、ここをちょっとこうすれば、ぐっとかわいくなれる。そんな気持ちで整形に臨むのが一般的なのだと。

 「美容整形は綺麗になるためのもの」。そう言われても、ぽかんとする人のほうが多いでしょう。だって、整形って綺麗になるためのものでしかないじゃない、他に何の目的があるの? と。

 ところが日本では、美容整形をしたがる人は「綺麗になりたい」ではなく「普通になりたい」と言って、クリニックを訪れるのだそうです。

「この鼻がこんなふうにおかしくなければ、私の人生は違っていた」

 自分の顔の「普通ではない」パーツをあげつらう人の言葉は、とても重いです。

「みんなより綺麗になりたいわけじゃない。普通になれればいい。鏡で自分の顔を見て、不快感を感じない程度になりたい」

 読んでいて、胸が詰まります。ここにも、容姿のことで強い圧力が生じて います。きっかけは他人の視線だったかもしれないし、他人の言葉だったかもしれません。自分自身の視線だったのかもしれない。いずれにせよ、一度「この パーツがおかしい」と思い込むと、そこが気になって気になって、「ここさえ普通なら、醜いことで人目を惹かずに済む」「普通の容姿だと見てもらえる」と思 うようになるのでしょう。

 

 わたしは、「別に美しくなりたいと思わない」ということと、「整形して普通の容姿になりたい」ということの間には、ひとつだけ共通する部分があると思います。それは「人から容姿のことで注目されたくない」ということです。

 「綺麗に/かわいくなったほうがいいに決まってる、誰もがそれを望んで いるはずだ」と考えている人は、容姿を賞賛され、その容姿の魅力によっていろいろなものが引き寄せられてくることを「いいこと」だと考えているのでしょ う。もしかすると、自分で鏡を見るだけでも綺麗だと満足できる容姿であるほうが嬉しく感じる、というその人自身の価値観から生じた考えかもしれません。と にかく、美しくあれば、他者から授けられるものや自分自身の満足感などのメリットがある、という考え方です。

 美しければ異性の目を惹くことができる、というのも大きいと思います。

 

 では、想像してみてください。どこかの企業に就職し、あきらかに美しい からという理由で受付や広報部に配属され、なぜか自分にだけ、写真撮影のある取材が来たり、打ち合わせなのか飲み会なのかはっきりしない「顔合わせ」に何 度も呼び出されて、まるでホステスかお姫様のように扱われることを。知らない人から、容姿だけを見てそれを賞賛したり否定したりするメッセージが飛んでく ることを。まったく好きではない人に、愛想良く対応しただけで「気を持たせた」と関係を迫られることを。

 美しいというだけで、あなたがどのような好みを持ち、どのような人物であるのか、いつでもそのことが二の次にされ、容姿のことばかりを話題にされることを。

 これが、果たしてメリットだと言えるでしょうか。

 

 これはそのまま、一般的に「美しくない」とされている人が感じているこ ととほぼ同じです。まったく好きではない人から「あいつは女としてないわ」と勝手に失格の判断を下され、容姿だけを見られ、内面がどのような人間なのか興 味も持たれない。容姿から想像できる内面を「あなたってこういう人なんでしょ?」と押しつけられる。容姿のことばかりを言われ、あげつらわれ、ひどいとき には笑いのネタにされる。その環境に適応するには、自分から笑い者の役を買って出るか、傷ついていないふりをしながら「もう、そんなこと言うのひどいです よ」と笑ってかわすか、そのような役割を演じるしかない。それを拒否すれば、待っているのは「勘違いしてる、感じの悪い女」という評価。

 どこにも逃げ場がないという点において、美しくても醜くても、容姿で評価をされるということはほぼ同じことだと思います。

 ならば「普通の容姿になりたい」=「美しさや醜さという突出したもののない、容姿をネタにされずに生活できるような、目立たない容姿になりたい」と思うのは、私には当たり前のようにも思えます。

 

 装えば、必ず人からの評価がついて回ります。「その服、似合ってて素 敵」と言われれば、そのことをなんとなく意識してしまいますし、「どうしてそんなの着てるの?」と言われると、自分の姿がいったい人からどんなふうに見え ているか気になります。別に人に評価してもらうための装いではなく、自分が快適な服を好きに着ているだけの人にとっては、何を着て、どんな髪型をして、ど んなお化粧をするかということを常に誰かに見られ、評価されるということ自体、大変なストレスでしょう。

 でも、人に自分の容姿を晒さずに誰かと接することはできません。そんな 自分に理解を示してくれる友人や家族とだけ接していられればいいのですが、仕事をすれば職場の人に会わなければいけないし、買いものをするにも化粧品を買 うにも誰かと接さなければならないことが多いです。こういうことを「本当に嫌だ」と言う人は、私の友人にも多いですし、私も同じように感じることがありま す。

 

 あるお店で、シャツを試着したことがあります。時間がなく急いでいたの で、一緒にパンツも勧められたのですが、それは断って、自分のはいていたジーンズと合わせてシャツを試着しました。別にそのジーンズと合わせようと思って いたわけではなく、私はそのシャツのサイズが自分に合うかどうか、似合うかどうか、とりあえず確認したかっただけでした。

 試着室から出た私を見て、店員さんはこう言いました。

「そのジーンズだと、クラス感が合いません」

 私はそのシャツを買いませんでした。とても素敵なシャツでしたし、一流 のデザイナーの服を扱うその店の人が、「その服にふさわしいコーディネイトをして欲しい」と言うのは、理解できます。そのような方針の店があってもかまわ ないと思います。もっと極端に、「似合わない人には売らない」という店があってもいい。売る側の、作る側の自由もあります。

 でも、そのとき私は一瞬、ぞっとしたのです。自分がいい服を着ているときも、そのコーディネイトは見知らぬ人から「あの服をあんな着方で着るなんて信じられない」「見苦しい」「最低のセンス」と、こきおろされているのかもしれないと想像したからです。

 私はそうした視線の中で、「もっとセンスが良くなりたい」「もっと素敵にこの服を着こなしたい」とは、絶対に言えません。唇がからからに乾いて、言葉を発することもできないと思いますし、発する意志もありません。

「私は、私の思うこのシャツの良さを引き出す着方を、自由にやってみてはいけないのですか?」

 たぶん私はあのとき、そう言うべきだったのだと思います。

 

 世の中にはセンスの良い人たちの集う世界があります。その人たちにしか 理解できない高度なセンスがあり、その中でお洒落だとされるものがあります。そうした人の中に混じると、私のセンスはひどいものでしょう。けれど、私はそ の中で認められるような「センスのいい人」になろうとは思っていません。

 「センスがいい人」だと認めてもらうために、店員さんに言われるがままに、「センスのいい着こなし」をまるごと買って着たり、そういうことをする気はありません。

 センスが良くなくても、「何が良いか」という判断を他人の手に委ねてし まえば、自分では何も判断できなくなってしまいます。そこを他人に任せてしまえば「こういうのがいいのだろう」「こういうふうにしておけば、いい感じに思 われるのだろう」と、うすぼんやりした視界しかない世界に、あっという間に引きずり込まれます。

 

 「こうすればもっと良くなるのに」「もとがきれいな人なのに服装が地 味」......。そういうときに何か一言言いたくなる、おせっかいで押しつけがましい気持ちを、私は持っています。自分にもあるけれど、自分が言われる 側に回ると「良いアドバイスをもらった」と感じるときと、「大きなお世話、ほっといて!」と思うときに分かれます。自分を客観的に捉えて見直したいとき に、信頼できる人からのアドバイスを受けられると、それは「有益なアドバイス」になりますし、特にそういうものを必要としていない場合、また、私のなりた い方向とはまったく関係のない方向性のファッションを勧められた場合は「余計なお世話」になります。洋服屋の店員さんが、リボンのついた服を私に勧めてき た場合などは、つい感情が顔に出てしまい、氷の女王のような顔になってしまいます。

 リボンのついた服がたとえどんなにかわいくても、私はそれを着たくありません。好きではないからです。

 一般的な綺麗さやかわいさが「好きではない」から、そういうものを目指 さない人もいるのです。それは、自分の価値観を他人の手に委ねていないということです。「私はただ、私の好きなことをしたい。服のことなんかどうでもい い。だから、ただ、ほっといて欲しい」「服やお化粧、装うということに興味が持てない。無駄なことだと思っているし、他に楽しいことがあってそれに夢中な のだから、見た目のことをあれこれ言うのはやめて欲しい」。口にはしないだけで、そう思っている人もたくさんいるでしょう。

 私は、少しださくて、少し古臭いファッションが好きです。もし「流行のアイテムをひとつ取り入れるだけで、ぐっと今っぽくなるのに」なんて言われたら、私はあまりに的外れなアドバイスに笑ってしまうと思います。私の目的は「今っぽく見せない」ことなのですから。

 『長くつ下のピッピ』という小説の中で、そばかすだらけの主人公・ピッピが、化粧品売り場の女性に「そばかすが消える化粧品」を勧められて、「そばかすが消えるなんてとんでもない! そばかすが増える化粧品があるんだったら買うわ」と言う場面があります。

 「もっとこうすればかわいくなるのに」というアドバイスは、もしかする と言われた側には「とんでもない! もっとかわいく見えない方法があるのなら、喜んで教えてもらうわ!」という感じのことかもしれません。人によって、目 指すものはそれぞれまったく違っているのですから。