fragment

断片と断片の連想ゲーム

知識欲という無形の暴力と、慣性と、天秤について。

「敗北とは習慣であり、勝利もまた習慣である」

 

ありとあらゆる1が大いなる1を作っている、情報に満ち満ちている、そんなこの世界を情報の大海と呼ぶとしたら、私たちはそれぞれ、Revoさん率いるSound Horizon的に言えば小舟に過ぎないだろうし、海に活きる一つのちっぽけな生物だということも出来る。

ではその時の心臓、もしくは船を動かしうる風とはなんだろう?
僕はそれは、知識欲だと思う。

 

知識欲とは、読んで字の如く「知りたい」と言う欲求。
では知るとはどういうこと?
それは理解する、把握する、認識する、経験する、感じる、辺りが該当するように思う。

理解したい、把握したい、認識したい、経験したい、感じたい。
これらはすべて、自分の中に取り込みたい、という欲求。
穿って見るなら、自分の中に内包したい、所有したい、支配したい、なんて欲求でもある気がする。

そしてこれはなにかと似ている。そう、食欲と似ている。
言ってみればつまり、知識欲と言うものは精神的な食欲なんじゃないかな、と思うのだ。

体の機能として、血糖値が摂取した食物の消化に依って上昇すれば、私達の満腹中枢も満たされて、それ以上何かを食べようと思うことはなくなるようにできている。

では知識欲という食欲にブレーキを掛けうる満腹中枢はあるんだろうか。

あるともいえるし、無いとも言えると思う。
つまり、満腹中枢のようなものは無いかもしれないが、ブレーキはある、ということ。

それは恐怖だったり、怠惰だったり。
時には言葉にするのが難しいような感情も含め、さまざまな想いがそれとして機能することがあるのではないか。

例えば、浮気を疑う夫が、掴んでしまったかもしれない証拠を確認するとき。
例えば、大好きだった漫画の最終回を読む前の躊躇を覚えるとき。
または、自分の発言や行動の、潜在的で極めて稚拙な理由を見て見ぬふりをするとき。

だが、これらは知識欲の勢いを減速させることしか出来ない。
「満腹だから食べない」という選択肢が知識欲にはないように思う。

知識欲という欲求が最も暴力的な欲求だと言われるのは、それが理由なのだろう。

知識欲に振り回されるのは一興ではあるが、それが日常になってしまっては、我々はやがて、ブロイラーでただ与えられる餌を待つ食用の鶏と変わらないのではないか。

 

万物は障害がなければその状態にとどまりたがる、これを慣性という。
止まったものは止まり続け、走るものは走り続けたがる。壊れたものは壊れたままで居続けたがるし、挫けたものは挫けたままでいたいと思う。

上昇志向の強い人は「進み続けたい、成長を続けたい」というが、それも一種の慣性なのだと思う。たとえば、「惨めな自分を見つめないままいるために進み続けるという状態に落ち着きたい」というような。

 

このツイートに対してこのツイートを思い出す。

思考停止できない、というのも慣性という意味では止まっている。
止まったら死んでしまうマグロのような魚と似ているように思う。

そう言う意味では、食欲がなければ人は動かないのだろう。
自分のままで在り続けるために、何かを摂取しようとするんじゃないだろうか。
そして、未来ではなくて今の延長を続けようとする。

しかし長期入院をした方や、大病を患った人なら分かっていただけるかと思うが、人間はそのようにできていない。動き続けなければ体中の筋肉、臓器は衰え、やがては呼吸と消化以外は何もできなくなる。脳もだんだんと鋭さと若々しさを失って、出来上がるのはブロイラーの鶏肉予備軍だ。

そう言う意味では、人間はとある状態からとある状態へ、飛び石のように飛び移っていく様にデザインされていると思う。

もし人間という生き物が、肉体と精神の化学反応で魂と言うものを維持しているのだとしたら、その本質はバランスを保つことにあるのかもしれない。

 

要するに、バランスに神は宿る、と言うオハナシ。

自分と言う人間が今どの状態に拘っていて、どの状態に行きたいのか、という方位磁針にも似た構造が、私達というモノを定義させるのかもしれない。