読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

fragment

断片と断片の連想ゲーム

世界の広さと面倒くさいという感情について

hitori-goto Psychology Twitter

 

最近、面倒くさいという単語について考えることがある。
自分はだいたいのことは仕方ないとか、割りきってしまえばなんとかやり通せる人間のようだと思うのだけど、どうも面倒くさいとよく口にする人と話していると、皆が皆そうではないようだ。

そもそも、思えば自分は高校の時にクズのような怠惰な生き方をしていた時は面倒くさいとかダルいとか言っていたけど、あれは何でだったのか?と思っていた中で、この一連のツイートを見かけてつながった事がある。

 


これらのツイートに共通するのはどちらも手の届く範囲の話をしている、そしてそれが手間と解釈されるか否か?の話も含んでいる。どういうことかといえばつまり、面倒くさいという感じる対象そのものの一部についての話だと僕は思ったのだ。

脳は手間を嫌い、未知を避ける。たとえば、頑張るという単語は脳にとっては理解ができない無意味な単語だと言われている。なぜかといえば、なにを、どのようにするのか?ということが全く明確にされておらず、場合によってはなぜやるのか?という事も明確でないことがある。それゆえ、頑張ることが面倒に感じるというのは、その言葉の直結する行き先がないから、の様に思う。同じ様に、日々のTo Doリストを潰す時に、何と無く後回しにしてしまうTo Doはだいたい、頑張るという言葉の様にそれがつまりはどういうことなのかが曖昧である様に思う。

これを踏まえて、先ほどのツイートで出た、手の届く範囲、というものを当てはめてみると、少し見えるものが違ってくる。というのも、その手の届く範囲というのは人によって異なる。そしてその認識の違いが時には、誰かを「甘えている」「怠けている」と言わせ、また自分を必要以上に責任感で潰しがちな人々を苛む根っこの一つとして潰しがちなのだと思うが、それはどの様に個々人の中に定義されうるものなのか?

それは端的にいえば、経験であり、知識だと思う。世界の広さと言ってもいいかもしれない(*世界の広さという表現で個人的にはすばらしきこのせかいの羽狛早苗をどうしても連想してしまうのだが。ところで不朽の名作だと思う。普及はしなかったかもしれないが)

つまりは、その人が認識している世界が狭ければ狭いほど、体験を持って知っていることが少なければ少ないほど、また、知識を持って事前に知っていることが少なければそれだけ、面倒くさいことは増えるのだと思う。

なので、面倒くさいという感情をどの様にすれば潰せるか?という問いに立った時、おそらくそれは動き始めることしかないのだと思う。目の前にあるものについて少しでも考え、仮説に至れるなら、それを行動で証明すること。そこまで出来れば、知らないうちに手間とも思わなくなるし、世界も広がっているのだと思う。要するに、動くことに慣れればいいのである。
また同時に、後回しにしてはいけない。厳密な理由もなくなにかを後回しにするという行為は結果的に、そのなにかをしないという前例を作ってしまうし、理由をつけるのが好きな脳はそれにふさわしい理由をでっち上げる。また、その理由が言い訳だと世間一般で言われるものの正体の様にも思えてならない。

つまり、覚悟のない妥協はするな、というオハナシ。